も、お楽しみください。

06年の紅葉です。観てね

200011
10000
****ようこそいらしゃいました。このHPは、「山田浅右衛門」の人物像を紹介してます。史実通りではありませんが、お楽しみください。****下記の名前をクリックすると解説に行きます。****
山田浅右衛門
最後の首切り執行人
山田浅右衛門(やまだあさえもん)
初代〜七代目1857〜82
江戸時代、将軍家の刀剣の試し切りと処刑の
執刀を世襲して行った。
「首斬り浅右衛門家」は明暦三年(1657・振袖火事)より
明治15年8月15日
(1882)迄,
八代・吉亮で225年の歴史を
閉じる事となった。


七代山田浅右衛門吉利

経歴 浪人。
山田家は、代々浅右衛門を名乗り、罪人の首切り役を努めた。職名は
「将軍家御試御用」と称されるが、正式な幕臣でなく、身分は浪人であった。
逸話 
 山田浅右衛門家は、将軍家や大名家の刀の試し斬りを依頼され、罪人の首を実際に斬って多額の謝礼を受けた。また、罪人の生き肝を奉行所から下げ渡され、これを薬として売ったことから、大名並みの収入があったともいう。一方では、多くの罪人を冥土へと送ったことから、その罪滅ぼしのため、死者のための供養塔を建てたり、貧民の救済をするなど、浄財を心がけている。
その後 明治十四年に斬首の刑が廃止され、七代吉利は御役御免となった。
山田家は罪人の死体から、脳味噌、胆嚢、肝臓、陰茎をもらい受け、
乾燥などの処理して薬として販売していたのである。
死体から売薬、特に肝臓から作った「人丹丸」「慶心丸」などと呼ばれる薬は結核の特効薬と珍重された。
  この売薬の利益は莫大で身分として浪人にすぎなかった山田家は万石の大名に匹敵すると言われ、生肝の信仰が山田家の経済を支え同時に人を
不気味がらせた。
初代目
山田浅右衛門貞武

初代浅右衛門は宝永(1700年頃)の人です。

初代山田浅右衛門貞武は、据物斬りの達人であった。

江戸の中期徳川吉宗の時代に浪人山田貞武が「浅右衛門」を称し、
七代目の山田浅右衛門吉利まで「将軍家御試(おためし)御用役」を世襲した家である
(但し、山田吉富が八代目の襲名したという記録もある)。

   江戸初期には左の図の右側の名称が使われていたようです。

中心に斬り落とした箇所の名前が切られている場合がありますが、江戸初期の摺付けは肩の線で肩胛骨(けんこうこつ)などがあって堅い部分ですが、江戸末期の摺付けは鳩尾(みずおち・みぞおち)の部分で、背骨と肋骨の末端しか骨がないので斬りやすい箇所となり、同じ名称でも斬れ味は全然違うことに注意が必要です。




二代目

山田浅右衛門吉時



三代目

山田浅右衛門吉継

<子連れ狼>で若林剛さんが演じたのは吉継(三代目)

『首斬り朝』(小池一夫・小島剛夕)は三代目山田浅右衛門吉継(よしつぐ)

『子連れ狼』(小池一夫・小島剛夕)にも三代目吉継が登場し、拝一刀と戦う。

四代目
山田浅右衛門吉寛

(やまだ あさえもん よしひろ)

腕のすげ代え手術をするために呼ばれた首斬り役人。通称「首斬り浅」。

死罪人の斬首、刀の様(ためし)斬り、鑑定、さらには死人の肝から作った薬を売って生業としている。

その稼ぎはちょっとした大名に匹敵するほどで、平河町に大きな屋敷を構えて連日連夜宴を開いている。

実在する人物で、「山田浅右衛門」の名前は世襲された。

五代目
山田浅右衛門吉睦


寛政4年(1792)8月19日、江戸千住の小塚原において、幕府の試し役を仰せつかっている浪人、

山田浅右衛門吉睦が、大伝太を振りかぶって、土壇のうえの死体に対した。エィツの掛声もろとも振りおろすと、

一回目は一ノ胴つまり鳩尾の所を、

二回目は車先つまり臍の下、骨盤の所を一刀両断して、下の土壇に約15cmほど切り込んだ.

三回目は左右の腋の下を結んだ線、つまり左右の肩胛骨をかけて斬りさげると、同じく土壇まできりこんだ。

四回目は三ツ胴つまり死体を三つ重ねておいて斬るが、上と中の死体はふりつけ摺り付け、つまり鳩尾の所を、斬った、

斬り手の山田吉睦は、山田家では中興の名人と謳われた名人だったが、刀が大業物でなければ、これほどの斬れ味は示せない

        

六代目
山田浅右衛門吉兼


平太吉兼が、赤坂家十二代目を継ぎ、山田浅右衛門を名のったのは、二十八歳の時であった。

山田浅右衛門としては、六代目であった。

 当主になるや、たちまち、父にまさる据物斬り、居合術の達人という評判をとった。

 浅右衛門吉兼は、据物斬りにしても、囚徒の首刎(は)ね、生胴斬りにしても、すべて、居合でおこなってみせた。

これを見る者は、従来の様式を破る異様の抜きつけを、感嘆のあまり、咎めだてする余裕さえもなかった。

土方歳三の刀「葵康継(あおい やすつぐ)」は首切り浅右衛門吉豊とその弟在吉の二人が試し斬りをしている。

この刀は葵御紋の康継にて、中子には左の如くきってある。
表に紋 「以南蛮鉄於武州江戸越前康継」



七代目
山田浅右衛門吉利


山田浅右衛門(やまだ あさえもん)七代  首切りを業とした達人
 1813〜84(文化10〜明治17)

吉田松陰、橋本左内らの首を刎ねた奉行所の死刑執行人、

七代目の吉利は幕末から明治にかけてお役を努め、吉田松陰の首を刎ねたのでも有名。

代目の山田浅右衛門は安政の大獄の吉田松蔭や、明治11年に紀尾井町の清水谷で大久保利通を暗殺した人達も処刑したといわれている。

墓の裏には「7代目山田浅右衛門」とあるが墓の左面には「山田朝右衛門」と彫られている。

「あさえもん」の字が「浅」ではなく「朝」になっている。

この「浅」と「朝」の字が異なるということについては、幕末の7代目や8代目を、

幕府が「将軍家御試(おためし)御用」と認めていなかったため、代わりに

「朝右衛門」と称し将軍家御用の「浅右衛門」という名前は用いなかったとわかった。
 
          
 

八代目
山田浅右衛門吉亮


山田浅右衛門・山田吉富(32)

山田在吉(8代目を襲名した)吉亮(よしふさ)?

山田浅右衛門八世吉亭は17歳から17年間に亘り刑の執行を致し、斬った首が三百人に上り、一族八代に亘り約2400人の処刑を執り行った勘定になる。

山田朝右衛門吉亮 (よしふさ)山田吉富(32)の弟

明治3年(1870)12月26日 奥羽越列藩同盟のオルガナイザーの一人で詩人として知られる雲井龍雄(27)の斬首刑に当たったのは八代目浅右衛門・山田吉富(32)の弟で、最後の浅右衛門と呼ばれた吉亮(よしふさ)(17)である。

山田家の生業は死体から売薬作りである。

死体から売薬

山田家は罪人の死体から、脳味噌、胆嚢、肝臓、陰茎をもらい受け、乾燥などの処理して「人丹丸」「慶心丸」薬として販売していたのである。

特に肝臓から作った「人丹丸」「慶心丸」などと呼ばれる薬は結核の特効薬と珍重された。

この売薬の利益は莫大で身分として浪人にすぎなかった山田家は万石の大名に匹敵すると言われ、生肝の信仰が山田家の経済を支え同時に人を不気味がらせた。

明治十四年に斬首の刑が廃止され、七代吉亮 は御役御免となった。

雲井龍雄の肝は同年4月15日、人丹、脳髄などの販売禁止令により薬にならなかった。

同時に試し斬りも禁じられ、吉亮は単なる「斬首役」でしかなかった。

明治14年8月吉亮は斬首刑の廃止により「市ヶ谷監獄署書記」を拝命し、翌年依頼退職した。

しかし、人の生ギモと縁が切れた時「首切り浅右衛門」は伝説の人物になったと言われる。

山田浅右衛門一門が1881年(明治14年7月24日)に斬首が廃止になり最後の浅右衛門、吉亮 は、凶器もち強盗殺人犯、厳尾竹次郎、川口国蔵の両名を斬首したのがその日であった。

25歳の時に、高橋お伝、島田一郎を斬首した事は有名である。 明治44年没 (1911年)
高橋お伝